第Ⅰ部 健康行動:基礎
第Ⅱ部 個人レベルの健康行動理論・モデル
第Ⅲ部 個人間における健康行動理論・モデル
第Ⅳ部 健康行動変容のコミュニティ・グループモデル
第Ⅴ部 研究と実践における理論の利用
訳者序文
本書はその第2版から20年近くにわたって私たちの座右の書の1つであり,日本で初めての公衆衛生大学院として設立された社会健康医学系専攻に赴任し,「ソシオ・エピデミオロジー(社会疫学)socioepidemiology」の講義の一環として健康行動学を教える中で,そのほぼ唯一のリソースとして用いてきました。しかし,これまで十数冊の関連書を翻訳出版してきた私たちですが,この本の翻訳にはどうしても踏み切れずにいました。第4 版までは,本書全体の翻訳が果たして有益かどうか,労力に値するかどうかに自信が持てなかったからです。
しかし第5版を目にしたときに,心が動きました。これまでの版より「概念的に整理」され,適切に「取捨選択」され,「拡張」されていると思われたからです。「概念的に整理」されたというのは,①健康教育という応用的な内容が書名からも内容からも省かれたため,“健康行動学”としての論理が通りやすくなったこと,②生態学的モデルの理念に関する章を前(第3章)に移動し,そこから始めて,その理念を実践に転換する包括的プログラムやフレームワークのセクション(第Ⅴ部)に至る間に,個人レベル,個人間レベル,コミュニティ/集団レベルと理論やモデルを段階的に配置する形をとったため,“生態学的視点”という本書の基本テーマが明確になったことによります。「取捨選択」というのは,本書の序文にもあるように,理論やモデルを文献に表れる頻度で選別し,かつ類似した理論を思い切って割愛したことです。これによって,焦点が明確化したと思われます。しかしこれは実際には大変な物理的,知的労力を伴う作業であり,改版ごとに膨大な文献に当たり整理する努力を惜しまない著者らの姿勢に惜しみない敬意を表したいと思います。そして「拡張」は様々なデメンジョンで行われています。もちろん,新しい動向の取入れという拡張があり,ミクストメソッド,ソーシャルネットワーク科学,情報通信技術の進歩,実践・実装を重視するインプリメンテーション科学やD&I 研究,行動経済学など新たなテーマが取り込まれ,健康行動学に様々な分野からの新たなインプットが続いていること,その応用の舞台も大きく広がりつつあること,実践性への強い社会的要請があること,包括的実践に向けての理論的整備(例:統合的インプリメンテーション研究フレームワーク[CFIR])が進みつつあることなどを理解することができます。また,文化的限定性への批判(行動理論が文化を超えた一般性を持たないとの批判)に対応するために,途上国やマイノリティへの応用研究の事例紹介を強化するなど,いわば“横”への拡張も行われ,こうした新たな努力はおおむね成功しているように思われました。そして,本書の初版以来の方針である,「理論と実践の橋渡しをする」努力は,新たなエビデンスを集め,事例をアップデートする中で相変わらず強く貫かれています。
こうしたポイントに加えて,翻訳の過程で訳者らに見えてきた1つの軸(デメンジョン)があります。当然編者らも意識しているに違いないものですが,本書のテーマとしてあまり強くは主張されていないためうっかりすると見落としてしまうかもしれません。それは,健康の不平等を是正するという「社会正義,人権」といった価値観の軸です。パウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」との共通性を必然的に持つコミュニティエンゲージメント,コミュニティエンパワーメント(第15章)は,理論やモデルや介入方法の1つというよりも,それらを内包すべき価値観の枠組みと言うべきもので,方法論とは異なる軸(デメンジョン)で扱う必要があります。その観点から訳者なりに理解すれば,方法論の軸(理論とそれに関連する諸科学からなる軸)と「社会正義,人権」の価値観の軸によって,行動変容の実践は,「価値観と方法論の両方に優れた実践」,「価値観は優れているが方法に劣る実践」,「価値観を伴わない方法だけの実践」,「価値観も方法も劣る実践」と大きく4つに分類することができるように思われ,こうした観点からの実践の見直しの必要性も,本書に非明示的に含まれているテーマであるように思われます。そう考えれば,健康行動学の目指すべき方向が明確となり,その体系化の方向もさらに明確になっていくのではないかと考えられます。
私たちは,エイズ問題をきっかけに,WYSH プロジェクトという若者の様々な問題の解決を目指す全国規模のプロジェクトに20年来取り組んできました。その方法論として,ソシオ・エピデミオロジー(社会疫学)というアプローチを独自に開拓してきましたが,このアプローチは,生態学的観点,ミクストメソッド,準実験的デザイン,根底的アプローチ,エンパワメント,インプリメンテーション科学,ソーシャルマーケティングなど,第5版の内容とは多くの共通点があり,私たちのアプローチの方向が健康行動学の発展の方向と軌を一にしていることを確認できたことは,今回の翻訳の私たちにとっての大きな収穫であったと考えています。
いつものことですが,翻訳は楽な作業ではありませんでした。疫学や統計のような量的方法の場合は用語の定義は明確ですが,社会科学的な文章では,しばしば同じ意味に多様な表現が使われたり,逆に同じ用語が異なる意味に使われることがあるため,大きな文脈を正確にとらえておかないと誤訳となることさえあります。また直訳すると「二重翻訳」が必要なもの(一応“漢字”になってはいるが,説明を聞かないと意味がわからないもの)になってしまう言葉も少なからずあったため(例:道具的態度),直接意味が汲み取れるような訳語にすることにかなりの労力と注意を払いました。また,論理を明確にするため,記述の順番を入れ替えたり,重複する記述を割愛したり,大幅に意訳したところもあることをお断りしておきたいと思います。また,訳語の中で,他の書籍などとの訳とは異なるものは,できるだけ他の訳語を付記するようにし,また私たちの他の訳書と同じように,重要な用語には,すべて原語を付記していますので,参考にしていただければ幸いです。
言うまでもなく,我が国では,生活習慣が背景となって生じる慢性疾患が増加し,高齢化によって一層拍車がかかる中,発症予防や悪化予防の重要性が強く指摘され,そのためには行動変容が必要であることは今や常識化した観があります。しかし,残念ながら,健康行動学や行動変容の方法を学ぶ機会は,我が国では非常に限られているのが現状です。本書が,そうした学ぶ機会を提供する一助となれば,訳者としてこれに過ぎる喜びはありません。
平成30年6月12日
梅雨,あじさいの美しい京都大学キャンパスにて
木原 雅子
加治 正行
木原 正博