外傷患者の診療に適用する外傷麻酔に関する解説書。「外傷麻酔の基本原則」「部位別の外傷麻酔」「特殊な外傷麻酔」の3章からなり、外傷疾患の病態生理や初期診療、手術戦略等を踏まえたうえで、外傷患者の蘇生、緊急手術、周術期管理をいかに行うか、簡潔にわかりやすく解説。外傷患者に遭遇する機会が少なく習得に時間が取れない救急医、麻酔科医にとって待望の書。
●Section 1 外傷麻酔の基本原則
1 外傷の疫学,受傷機転,プレホスピタルケア
2 外傷初期診療
3 気道管理
4 ショック,蘇生,輸液療法
5 血管確保
6 輸血と外傷性凝固障害
7 外傷の全身麻酔
8 外傷の区域麻酔
9 外傷患者のモニタリング
10 外傷の心エコー検査
11 外傷患者の凝固モニタリング
12 外傷の術後管理
●Section 2 部位別の外傷麻酔
13 成人の外傷性脳損傷の麻酔
14 脊髄損傷の麻酔
15 眼外傷と顎顔面外傷の麻酔
16 胸部外傷の麻酔
17 腹部外傷の麻酔
18 筋骨格外傷の麻酔
●Section 3 特殊な外傷麻酔
19 熱傷患者の麻酔
20 小児外傷の麻酔
21 高齢者外傷の麻酔
22 妊婦外傷の麻酔
監訳者の序
外傷麻酔は手術室麻酔ではなく手術室蘇生だ
それは,腹部と頸部を刺され,階段から転落した患者だった。初療の乳酸値が4mmol/L を超える出血性ショックで,死亡率が高いことは麻酔科医も外科医も予想していた。
手術室の室温を上げておく。加温パッドとブランケットを用意した。加温急速輸血装置のスイッチを入れておき,血液保管庫にはO型血があることを確認しておく。
患者が入室。急速輸液に備えて静脈ラインから空気を抜いておく。麻酔導入は,血圧低下が少ないケタミンを使う。頸部切創のため頸部が腫れている。声門を通して気管損傷の有無をみるために,ビデオ喉頭鏡で挿管する。挿管に失敗した場合は通常,輪状甲状靱帯切開となるが,頸部腫脹のときは気管切開のほうが早い。輪状軟骨を触れることができないからだ。
患者は暴力団風の体裁で暴れている。通常の迅速導入rapid sequence induction (RSI)では,気管チューブが固定されるまでは換気を試みないとされている。しかし,非協力的な患者で満足な前酸素化ができないときはマスク換気を行うべきだ。
麻酔導入はうまくいった。酸素と空気で麻酔を維持する。外傷患者には亜酸化窒素(N2O)は使わない。理由は,脳血管拡張による頭蓋内圧(ICP)の上昇と,麻酔中に空気を含有する腔が膨隆し気胸が悪化するから。
「頭部外傷を合併しているので,ICPをあげないようにしてください。そのためにはPaCO2 (動脈血二酸化炭素分圧)の上昇に気をつけてね」「はい,EtCO2(呼気終末二酸化炭素)は40 mmHg ですよ」「出血性ショックのときは,PaCO2>EtCO2の差が開くんだ。EtCO2 を盲信すると8割で低換気になるから定時でガス分析してね」
開腹止血術が進む。耳で聞いていた末梢動脈血酸素飽和度(SpO2)の電子音が低くなった。気胸が気になるが,気道内圧は大丈夫だ。「気胸の所見がないか横隔膜をみてください」と外科医に頼んだ。「術野では左横隔膜に奇異運動があるよ。血胸か気胸がきっとあるね」「頭側から肺エコーやってみます」「腹部の止血が終わってから胸腔ドレーンを入れるよ」
モニターディスプレイに表示される動脈圧波形をeyeballing(凝視)する。波形が変動し,形に変化がみえた。これは,収縮期血圧変動systolic pressure variation(SPV),脈圧変動pulse pressure variation(PPV)の悪化で蘇生不良を意味する。
まだ止血操作は完了していない。pH をチェックすると7.20を下回っている。それまで行っていた輸液制限で収縮期血圧(SBP)80~ 90mmHg の軽度低血圧蘇生は危険と判断した。輸血スピードをあげる。術野では懸命の止血操作が続く。
その後,事態は悪化する。「出血が40%を超えています。base excessが-15を超えました。危険です。輸血が追いつきません」「わかった,手術手技を止める。パッキングで肝臓を圧迫止血するから,何とかcatch-upして」「5 分ください」
麻酔科研修医が「へスパンダーを使いますか」とたずねてきた。麻酔科医は答えた「いや,血清イオン化カルシウムに結合することで免疫グロブリンを減少させる。30mg/kgを超えると凝固障害が起こるから,使わない」
外科医は肝臓を押さえる手を動かさない。助手が吸引する出血量の勢いは弱まってきた。「catch-upできました。しかし加温の努力をしていますが,体温が低下してきています」「中枢温はどこでみているの」「膀胱温です」「出血性ショック時の中枢温測定に膀胱ではだめだ,食道か鼓膜にしてください」「鼓膜温は下がっています。手術を簡略化してください」「OK,死の三徴がでてしまったのでdamage control surgeryにして15分で閉創する」「こちらはdamage control hemostatic resuscitationとしてFFP(新鮮凍結血漿)をすでに始めています」
患者はopen abdomen management(開腹管理)で閉創された。閉創後も腹部コンパートメント症候群を思わせる気道内圧の上昇はなかった。集中治療室(ICU)に入室し,蘇生を継続した。患者は48時間後にplanned reoperationとして手術室に戻ってきた……。
これはほんの一例である。
本書は国内初の外傷麻酔の専門書であり,入門書になるはずだ。外傷麻酔について独学で切り抜けてきたがもっと専門性を高めたいベテラン医師,または外傷に苦手意識をもっている若手医師もいることだろう。ここであげたような症例に遭遇したときに,本書はきっと,そんな彼らの背中を優しく押してくれる。
2019 年4 月
八戸市立市民病院 院長
今 明秀
監訳者の序
重症外傷の懸命な手術にもかかわらず,その患者の命を失うことがある。外傷に携わる医療従事者なら,1 度は経験があることであろう。なぜ救命できなかったのか。あまりに重症すぎたのかもしれない。でも,もっと早く病院に到着していれば。もっと早く手術できれば。その思いが,消えることはない。
外傷はsurgical diseaseである。救急医,麻酔科医をはじめとする「非外科系」医師は,外傷の根本的治療である手術をみずから行うことはない。今日の日本の外傷治療の現場において,ある意味,脇役的な存在かもしれない。しかし,ベッドに横たわる瀕死の重症外傷患者の頭側に立ち,いつも考える。どうすれば救命できるのか。なぜなら,外傷には手術だけでなく,蘇生が必要であることを知っているから。JATECTM だけでは重症外傷患者を救命することができないことを知っているから。外傷患者の救命に日夜,挑戦を続ける救急医,麻酔科医,集中治療医。メスを持たない外傷医たちに,この本を届けたい。
近年の外傷治療の進歩の中核にあるのは,「外科的な」手術手技や器械ではない。damage contorl surgery は30 年も前に発明されたものである。いま外傷治療を新たな次元へと進化させるのは,「非外科的な」治療の革新である。つまり,ドクターヘリやドクターカーを含む病院前外傷システム,JPTECTM やJATECTM などの治療の標準化,外傷性凝固障害の認知と治療,輸液や輸血戦略をはじめとする多くの新たな「非外科的な」治療がこの十数年で進化を遂げている。そして,いま求められているのは,多くの専門医や多職種の連携による専門性の高い外傷チーム医療である。日本でも各領域で外傷治療の専門性とその教育の必要性が議論されてきた。しかし,外傷麻酔の専門性はまだ議論されていない。いま世界では,外傷治療における麻酔科医の役割と専門性が注目されている。
本書のなかで米国の外傷麻酔のエキスパートたちによって論じられているのは,「外傷患者の手術のための麻酔」ではない。外傷患者の治療に必要な手術のために,ただ麻酔をするだけならば,麻酔の基本的な手技と知識で十分であり,それほど難しいことではない。本書が伝える外傷麻酔とは,「外傷患者を治療する麻酔」である。それは,一般的な予定手術や他の内因性疾患の臨時手術の麻酔とは異なる。
外傷麻酔には,外傷患者に特有の病態生理の理解が重要である。そして,外傷初期診療の概念,損傷の診断と治療の基本,治療の優先順位の判断,外傷手術の適応と術式,多発傷手術戦略を理解することが必要である。そのうえで麻酔科医の専門性である気道,呼吸,循環をはじめとする全身管理や麻酔の高度な技術と知識を,いかにして外傷患者の蘇生,緊急手術,周術期管理に応用するかを本書では論じている。さらに,これまで語られることの少なかった外傷治療のテクニックとピットフォールが紹介されている。救急医も外傷外科医もこれは知らないかもしれない。外傷手術の裏で蘇生と麻酔を担い,重傷外傷,多発外傷のダイナミックで複雑な病態を掌握することのできる外傷麻酔医だからこそ知っている技がある。
本書の表紙の写真は,原著の編者の1 人であるDr. Varonが自身のiPhoneで撮影したものだという。米国のRyder Trauma Centerの屋上ヘリポートにヘリコプターで搬入された重症外傷患者を外科医と麻酔科医が迎える場面である。これは,外傷麻酔医の早期参入を象徴する写真である。外傷治療には,麻酔と蘇生が必要である。それは,手術室の中に限られたことではない。外傷麻酔を担うのは麻酔科医だけではなく,救急医や集中治療医が麻酔医として外傷治療にかかわることもあるだろう。本書では,外傷麻酔を担う麻酔科医,麻酔医,メスを持たない外傷医たちを外傷麻酔医と称した。もし外傷麻酔医が蘇生の早期から積極的に外傷チームに参入し,病院前,救急室から手術室へ,そして集中治療室(ICU)へと蘇生をシームレスにつなげることができれば,外傷チーム医療をさらに高い次元へと確実にレベルアップさせることができる。外傷チームには外傷麻酔医にしかできない仕事がある。
外傷患者にとって最高の蘇生,麻酔とは何か。本書は入門書である。ここで語り尽くせない外傷麻酔のエッセンスは,必ず外傷治療の現場にある。外傷麻酔とは,チーム医療である。外傷麻酔医は手術室からでて,外科医と,そして外傷チームと一体になることが求められる。コミュニケーションとチームワークが,これからの外傷麻酔を進化させていくはずである。
最後に,本書の翻訳に協力してくれた日本全国の救急医,外科医,麻酔科医の先生方に感謝する。私に医師としての基礎と,外傷治療,外傷麻酔を教えてくれたのは,いつも一緒に外傷手術をともにした外傷外科医の今明秀先生,野田頭達也先生であった。たくさんの外傷患者との出会いと,2 人の師匠に深く感謝したい。本書は国内初の外傷麻酔の専門書である。日本の救急医,麻酔科医,集中治療医,そして外科医にとって,本書が明日の外傷麻酔の羅針盤となることを願う。
2019 年4 月
防衛医科大学校病院 救急部
吉村 有矢
編者の序
外傷によって毎年500万人以上もの命が失われている。外傷による身体的,精神的な後遺症に苦しむ患者の数はさらに多く,患者自身やその家族,社会にとって大きな問題となっている。外傷は,米国の全死亡者における死因の第3位を占めており,46歳以下では最多の死因である。また,外傷はそれ単独で損失生存可能年数(YPLL)の最大の要因でもある。
外傷麻酔を専門としている麻酔科医はごく少数であるが,ほとんどの麻酔科医が一度は外傷患者の麻酔を経験することになる。それは一日の終わりかもしれないし真夜中かもしれないが,十分な患者情報が得られていなくても,複数の部位や臓器にわたる異常に対して迅速な治療が求められる。
重症外傷患者の治療に麻酔科医が積極的に参加することは,患者の転帰を改善する絶好のチャンスを生み出す。術中の麻酔管理に限らず,初期評価,蘇生,周術期管理においても麻酔科医の活躍の場があると信じている。しかし,残念ながら現在の麻酔科研修では,外傷治療のすべてを経験することができない。外傷麻酔について執筆されている教科書はいくつかあるが,その内容は膨大であり,一部を参照することはあっても,最初から最後まで通読できるような本ではない。
私たちが本書“Essentials of Trauma Anesthesia”の初版を上梓した目的は,麻酔科研修医や若手麻酔科医のために,重症外傷患者の治療の要点をわかりやすく解説することである。そして,病院前から患者が集中治療室(ICU)を退室するまで,麻酔科医が外傷治療のさまざまな局面で果たす役割とその重要性を伝えることにある。この第2 版では,その目的を踏襲しつつ,いくつもの新たな知見についても解説してある。例えば,出血や凝固障害の管理におけるパラダイムシフトや,新たな筋弛緩薬や抗凝固薬の拮抗薬の登場,診療ガイドラインの最新の改訂などを追加してある。
初版と同じく第2版でも,外傷麻酔の要点を3部構成で解説した。Section 1は「外傷麻酔の基本原則」である。疫学,受傷機転,プレホスピタルケア,初期診療,気道管理,ショック,蘇生,輸液管理,血管確保,輸血療法,全身麻酔と区域麻酔,モニタリング,心エコー,術後管理について述べてある。初版からの変更点として,第2 版では外傷患者の凝固モニタリングの章を新たに追加した。Section 2は「部位別の外傷麻酔」である。外傷性脳損傷,脊髄損傷,眼外傷と顎顔面外傷,胸部外傷,腹部外傷,筋骨格外傷の麻酔管理での注意事項の総説となっている。Section 3は「特殊な外傷麻酔」として,熱傷,小児外傷,高齢者外傷,妊婦外傷を扱っている。初版の構成,形式を踏襲しているが,すべての章において最新の内容に大幅に書き直している。
私たち編者2人は,大学病院に在籍する外傷麻酔医である。2人とも30年間にわたり外傷患者の治療に携わってきた。嬉しいことに,米国やカナダの一流の外傷センターにおいて臨床の最前線で活躍しているエキスパートたちが本書の執筆のために集まってくれた。どの章も読みやすく,そして臨床に役立つ最新の外傷治療が述べられている。編集者として,執筆者と協力して形式を統一し,各題材が論理的で整合性のある記述になるようつとめるとともに,不要な重複を省き,各章で内容を相互に参照できるようにしてある。箇条書きと表を自由に使用することで,外傷治療の要点がすぐに理解できて,わかりやすい文章にまとめることができた。
私たちは,この第2版が,外傷麻酔に携わる,あるいは今後携わることになるであろう麻酔科研修医や若手麻酔科医にとって,実用的で実戦的な教科書になることを願っている。新人からベテランまですべての麻酔科医が本書から学び,そしてさらに外傷患者の診療の向上に役立てることができれば幸いである。
本書の編者として,米国麻酔科学会American Society of Anesthesiologists(ASA)のCommittee of Trauma and Emergency Preparedness(COTEP)の委員と,MetroHealth Medical Center,Ryder Trauma Center の外傷麻酔科の同僚諸氏に感謝したい。彼らは本書の項目の選択に尽力してくれた。また,忙しい仕事の合間を縫って原稿を書き上げてくれた各章の執筆者たちにも礼を述べる。本書の執筆者のほとんどは,外傷麻酔学会Trauma Anesthesiology Society(TAS)の会員であり,TASは本書のプロジェクトを熱烈に応援してくれた。最後に,Sarah Payne,Jade Scardの支援に感謝するとともに,“Essentials of Trauma Anesthesia”の制作と時宜を得た発行に協力してくれたCambridge University Press のスタッフ全員に感謝の意を表する。
Albert J. Varon, MD, MHPE, FCCM
Charles E. Smith, MD
2019-05-31
【正誤表】下記の箇所に誤りがございました。ここに訂正するとともに, 読者の方々に深くお詫びいたします。
310頁 上から1行目
(誤)不安定な長管骨骨折
(正)不安定な体軸骨折(大腿骨近位部または骨幹部骨折、骨盤輪骨折、寛骨臼骨折、胸腰椎骨折)