ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

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1947 年か48 年の1 月に,グループはニューオーリンズで打ち合わせを行った。Thorn との電話により,彼が編者として参加し,1948 年の夏の「長い打ち合わせ」にも参加できることが分かった。これは本当に朗報だった。もう1 つの大きな出来事は,Wintrobeの提案により,あるシステムが導入されたことだった。このシステムは,その場で「ウルフ・システム」※3と命名された。彼は,送付されてきた原稿を自分で読んだだけでなく,ユタ大学内で,各章を批評するのに最適だと思われる人物を選んで,それを読ませていたのである。Wintrobe は校閲者たちに,彼らの名は伏せておくので,率直に,手加減なしの意見を聞かせてほしいと頼んでいた。この段階で厳格かつ容赦ない批評にさらしておけば,できあがる頃には,ほとんど非の打ちどころがない本になっているだろうという彼の目論見が正しかったことは,時間が証明してくれることになる。

とはいえ,批評の多くは,あまりにも手厳しかった。少しでも早く作業を軌道に乗せようとする私が執筆した章の大半が槍玉にあがっていた。たしかに,一部の章は,十分に練り上げることも,最新の文献を検討することもなく走り書きされていた。私は当初,ささか気分を害して,批判の方が不当なのだと言って自分を弁護しようとした。けれどもすぐに,Resnik とBeeson も,Wintrobeやユタ大学の「狼」たちと同じ意見であることが明らかになった。狼たちは,基本的に正しかったのだ。ここで私は,『お気に召すまま』に出てくる公爵が国外追放される場面の,

...氷の牙が冬の風の無遠慮な小言が

わたしの体に噛みつき,吹きつける

寒さに震えているときも,わたしは笑ってこう言おう

「これはお追従ではない。彼らは相談役なのだ

わたしを思いやり,説得しようとしてくれているのだ」

というセリフを思い出した。

※3 訳注:「ウルフ・システム」について,詳しくは「Beeson の回想」を参照されたい。