ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

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あれから長い年月が経過した今,感謝の気持ちを込めて,一部の校閲者の名をあげることは許されるだろう。特に貴重で痛烈な批判をくれたのは,ユタ大学のVal Jager,Frank Tyler,Hans Hechtだった。

彼らの批判は,悪意ではなく,一流のテキストをつくる役に立ちたいという熱意にもとづくものだった。ゆえに,Wintrobe は仲間の編者から感謝され,その感謝をユタ大学の同僚に伝えてくれるようにとことづけられた。こうして,『ハリソン内科学』,特にその初版の質を大いに高めることになった「ウルフ・システム」が誕生した。Wintrobe はその後も多くの貢献をすることになるのだが,自由で率直なこの批評システムの考案ほど重要なものはなかったと言ってもよいだろう。他の編者たちも自分の同僚からコメントをもらうことはあったが,最初に「ウルフ・システム」を導入したのがWintrobe とユタ大学の同僚であることは明らかだった。

1948 年の6 月に,サンフランシスコでAMA(American MedicalAssociation)の会合が開かれた。編者の中ではWintrobe と私だけがこの会合に参加したので,Ted Phillips はわれわれをオークランドのレストラン「トレーダー・ヴィック」に招待してくれた。ディナーに参加したほかのゲストは,Becky Wintrobe,Eunice Stevens,私の弟で同じく医師であるGroce Harrison だった。Wintrobe と私は,このときに生まれて初めてポリネシア料理を食することになったのだが,少なくとも「トレーダー・ヴィック」の料理には大いに満足した。アペリティフに飲んだスコーピオン※4は,その後の料理の味を引き立たせ,談笑を誘った。本についての改まった話し合いはなかったものの,この機会にはぐくまれた親密感が,われわれをますます奮い立たせた。

1948 年の夏には,いよいよ第1 回目の「長い打ち合わせ」が開かれることになっていた。打ち合わせの場所をめぐっては,多くの議論がなされ,手紙がやりとりされたが,ここでもまたWintrobeの提案が通った。彼が提案したのは,イエローストーン国立公園の数マイル南にある,ティートンのジャクソンホールの近くにあるシグナルマウンテンロッジだった。この打ち合わせは,いくつかの点できわめて重要だった。それはまず,George Thorn が参加する,最初の打ち合わせであった。また,翌年の年末までにすべての最終稿を出版社に渡す予定になっていたので,初版に関するすべての最終決定を行われなければならなかった。おまけに,編者の妻や子供たちも一緒にくることになっていたので,状況によっては,グループ内の士気がさらに高まったり,損なわれたりすることが考えられた。

※4 訳注:ラムとブランデーとフルーツジュースの南国風カクテル