ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

16/16

編集チームの翌年の主な仕事は,シグナルマウンテンロッジで同意した方針に沿って,執筆者たちから寄せられた原稿と,自分たちが執筆した原稿に目を通すことだった。ここで問題になったのは,急遽,追加されることになった神経学の分野だった。ワイオミングでの会合の前には,少なくとも初版からは神経学を除外することが決まっていたのだが,Thorn が,初版にも神経学の分野を入れるべきであり,編集チームに神経学者を入れることも真剣に考慮しなければならないと主張しはじめたのである。彼の口調は例によって穏やかだったが,この問題に関しては絶対に譲ろうとしなかった。

Thorn の言い分はもっともで,その正しさは後の出来事により裏づけられることになるのだが,最後の最後になって神経学の章を入れようと決めたことは,やはり大きな混乱をもたらした。執筆を依頼したHouston Merritt は,同僚のDaniel Sciarra の協力を得られるならば,執筆を引き受けてもよいと返答してきた。われわれはその条件をのみ,彼らはただちに執筆にとりかかったが,原稿の質が低かったうえに,脱稿の時期も遅れ,編者が詳細な提案をすることもできなかった。もちろん,責任は編者の側にあった。Thorn の貴重な意見により,神経学を完全に見落としてしまうという取り返しのつかない失敗だけは免れることができたが,神経学に割り当てられた時間とスペースはあまりにも少なかった。これは完全な失敗で,以後の版では決して繰り返してはならないものだった。

初版の出版に先立つ最後の打ち合わせは,1949 年の5 月に,フィラデルフィアのTed Phillips の自宅で行われた。原稿は完成し,校正も終了し,印刷も間近に迫っていた。主な議題は,初版が成功した場合に数年後に出版されることになる第2 版の計画についてだった。その場で,最初の1 年に初版がどれだけ売れるかについて,賭けが行われた。われわれは本の質には強い自信を持っていたが,構成の新しさがネックになって,当初の売り上げはあまり伸びないだろうと考えていた。編者は皆,3,000 部から6,000 部までの控え目な予想をし,8,000 部というPhillips の予想は,あまりにも楽観的だと考えていた。それから1 年が過ぎて売り上げの数字が確定すると,全員が間違っていたことが明らかになった。最初の1年の売り上げは,われわれの予想をはるかに上回り,1 万4,000 部近くにまで達していたのだ。

Ted Phillips の自宅で行われる最後の打ち合わせとなったこの会合は,いろいろな点で楽しいものになった。季節はまたもや春だったし,美しい花々が咲き乱れていた。裏庭のグリルでステーキを焼くPhillips は,相変わらず高いシェフ帽をかぶり,その腕前はすばらしかった。

その日はちょうど,ケンタッキーダービーの開催日だった。編者たちは1ドルずつ出し合って,帽子の中に入れた馬の名前を書いた紙切れがすべてなくなるまで順番に引いた。それからしばらく個人的に馬を交換したり売買したりした後に,ラジオのスイッチを入れてレースの中継を聴いた。後になって気がつくと,どんな巧妙な手を使ったのか,Thorn がすべての入賞馬を所有し,すべての掛け金を手にしていた。こうして,編者たちは1 つのことを学んだ。自分たちは二度と,この切れ者のニューイングランドのヤンキーを相手に賭けをしたり,取り引きをしたりはしないだろう。