ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

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初回の会合の結果,私は,強力な編集チームを結成できるなら,そして,その場合に限って,編集主幹を引き受けてもよいと考えている自分に気がついた。

数ヶ月後,ニューヨークで第2 回目の打ち合わせが開かれた。出席したのは,Ted Phillips と,会議録をとった重役秘書のEuniceStevens,Bill Resnik,Bill Dock,Max Wintrobe,それに私だった。この時点で編集チームへの参加を決めた者はまだ1 人もいなかったが,誰もがそのことについて話し合う気持ちは持っていた。

本の構成については,大まかな合意ができた。最初の部分に「症候」がきて,次に「疾患のメカニズム」がくる。病態生理学と生化学は,特に重視しなければならない。続いて,それぞれの具体的な疾患についての考察がきて,その部分が全体の3 分の2 あまりを占めることになる。

Chester Keefer は打ち合わせへの参加を断ってきていたが,その場にいた全員が彼を確保すべきだと考えていた。そこで,Keeferに電話をかけて,夕方にボストン空港でTed Phillips と私に会ってくれるように頼み込んだ。

飛行機での移動中に,われわれは,終わったばかりの打ち合わせについて話し合った。Wintrobe とResnik が,この本に対して強い興味を寄せ,かなりの意気込みを見せていたことは心強かった。問題は,打ち合わせの時間のほとんどがBill Dock の話を聞くために費やされてしまい,ほとんど何も決められなかったことだった。Dock の話は楽しかったが,本とは関係ないものばかりだったのである。今後の打ち合わせを実りあるものにするために,彼の一人舞台にさせないためのなんらかの手だてを講ずる必要があることは明らかだった。

Chester Keefer との話し合いは,わずか30 分で終わった。彼は,編集チームへの誘いを受けたことは光栄に思うし,事情さえ許せば参加したかもしれないと言った。けれども自分は,不足しているペニシリンを全米に行き渡らせるという責務を負っていて,これ以上の負担を背負うことは不可能だ。そこでわれわれは,彼の代わりにPaul Beeson に頼んでみようと思うがどうだろうかと尋ねた。実はその日の会合で,Keefer に依頼を断られた場合にはBeesonに声をかけてみようと決まっていたのである。Keefer は,それは良い考えだと言った。