ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

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ボストンからの帰りの機中で,Beeson とコンタクトをとり,できるだけ早い時期に他のメンバーと顔合わせをしてもらうことになった。Beeson もまた,とりあえず打ち合わせには出席するが,最終的に参加するかどうかは,その後で判断したいと返事をしてきた。

次の打ち合わせもニューヨークで開かれた。Wintrobe はここで,もう1 人,代謝と内分泌学を専門にする編者を入れようと提案した。各章のアウトラインも,少しは見えてきた。問題はBill Dockだった。今回も彼が1 人で喋っていて,そのほとんどが議題とは無関係な単なる軽口だったのだ。Dock という楽しくも深刻なハンディキャップを抱えていたが,それでも編集チームの士気は高かった。今や,私だけでなく,Resnik,Wintrobe,Beeson も,参加に前向きになっていたことは明らかだった。

この打ち合わせの少し後に,Bill Dock から,編集チームに参加しないことに決めたという手紙が届いた。Resnik と私はDock の親友だったが,この決定に安堵した。Morris Fishbein が言っていたように,彼が共同作業向きの人間ではないことがよく分かったからである。Dock が編集チームへの参加を取りやめた理由は分からなかったが,何かに腹をたてたり,人間関係に問題が生じたりしたせいではなかったと思う。われわれはそこで,自分のせいで打ち合わせが脱線し,作業が遅れていることに気づいた彼が,編集チームに参加しないことで最大の貢献をしようと考えたのではないかと想像した。その証拠に,彼と他の編者との友情にはなんの変わりもなく,頼まれればいつでも原稿を執筆してくれたからである。

私と一部の編者は編集チームが大きくなりすぎることを嫌っていたが,Dock が参加を取りやめたことで,チームの規模を変えることなく代謝の専門家を迎え入れることが可能になった。Wintrobeの提案により,George Thorn に声をかけることが決まったが,返事ははかばかしいものではなかった。Thorn は当時,肝炎を病んでおり,新たな仕事を引き受けたがらなかったのである。それでも参加してくれる可能性はあったので,代謝を専門とする編者の決定は延期された。

その次の打ち合わせは,1946 年か47 年に,フィラデルフィアにあるTed Phillips の自宅で開かれた。庭には,春の花々が咲き誇っていた。Ted は,客をもてなすのが上手だっただけでなく,ステーキを焼く腕前もかなりのものだった。2 フィート近い高さの白いシェフ帽が,料理人としての彼の技量をきわだたせていた。各章のアウトラインの詳細を決める議論の中で,基本的なパターンも見えてきた。