第3版 1958年・T.R. Harrison
病気のためにイェール大学での仕事にまで支障をきたしていたBeeson は,編集チームを退かざるをえなくなった。仕事仲間としてBeeson を高く評価していただけでなく,個人的にも深い友情を抱いていたわれわれは,彼の決断を残念に思った。感染症分野の後任の編者を選ぶ前に,残りの編者は満場一致で,次の版の印税の取り分の半分と,その次の版の4 分の1 をBeeson が受け取れるようにすることにした。つまり,Beeson の後任の編者は,第3版では印税の取り分の半分,第4 版でも4 分の3 しか受け取れないことになるが,これは,新しい版が古い版を基礎にしてつくられるために,編者の貢献は引退によってただちにゼロになるわけではなく,新しい編者もゼロから仕事をはじめるわけではないという認識があったからである。
ところで,Beeson の引退から3 年あまり経った頃,Beeson から私に手紙が届いた。Saunders 社から『セシル内科学』の編者になってくれという依頼が来ているのだが,受けてもかまわないだろうかというのである。『セシル内科学』の編集主幹は,数年前に,Russell Cecil からBob Loeb に代わっていた。今回,そのLoeb が引退することになり,Saunders 社は,Beeson とWalsh McDermott にその後任を依頼してきたのだという。健康状態も回復し,イェール大学での仕事にも余裕がでてきたBeeson は,この依頼を受けてもよいと考えていた。けれども彼は,「ハリソン組(The Gang)」には友情を抱いていたし,印税についての取り計らいにも深い恩義を感じていたらしい。だから,私がそれをかつての仲間に対する裏切りや忘恩にあたると考えない場合にかぎって,『セシル内科学』の仕事を引き受けたいと言ってきたのである。
私は早速,返事を書いた。私は彼にお祝いの言葉を送り,それにもまして幸運を祝福されるべきは,すばらしい人選をしたSaunders社の方だろうと伝えた。かつての編者が競争相手の編集主幹に就任するということは,『ハリソン内科学』にとっては名誉以外の何物でもない。Saunders 社もついに,自分たちのテキストの疾患に対するアプローチや構成などが時代遅れになったことを理解したのだろう。今後の競争がより厳しいものになることは,自分たちも望むところだ。Beeson がSaunders 社からの依頼を受けることが裏切りや忘恩にあたるとは思わないし,それによってわれわれの友情が脅かされるとも思わない。
他の編者たちも皆,私と同じ考えだった。10 年以上経ってこの文章を書きながら,Beeson とかつての仲間たちがいまだに固い友情の絆で結ばれていると報告できることは,嬉しいことである。※1
※1 訳注:このへんのいきさつについてのBeeson 側からの説明は,「Beeson の回想」を参照されたい。
- 第1版 1950年・T.R. Harrison
- 第2版 1954年・T.R. Harrison
- 第3版 1958年・T.R. Harrison
- 第4版 1962年・M.M. Wintrobe
- 第5版 1966年・M.M. Wintrobe
- 第6版 1970年・M.M. Wintrobe
- 第7版 1974年・M.M. Wintrobe
- 第8版 1977年・G.W. Thorn
- 第9版 1980年・K.J. Isselbacher
- 第10版 1983年・R.G. Petersdorf
- 第11版 1987年・E. Braunwald