ハリソン物語

第6版 1970年・M.M. Wintrobe

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第5 版が完成した後,Harrison とResnik が編集チームから退き,後任としてEugene Braunwald とKurt J. Isselbacher が参加することが決まった。幸い,この選択は当たりだった。さらにまた,ジョンソン大統領府科学技術局の副局長に就任したBennett が時間のやり繰りがつかなくなり,その推薦により,Robert G. Petersdorfが代理役に決まった。これもまた良い選択であることが明らかになった。

そのようなわけで,1968 年8 月にマデイラ島のフンシャル※1で行われた第6 版の「長い打ち合わせ」には,いくつかの新しい顔と欠けている顔があった。Braunwald,Isselbacher,Wintrobe とその妻たち,Petersdorf,Adams,Thorn という顔ぶれの中で,Thornは父親の病気のために数日後にアメリカに帰国することになった。また,私の妻は,病気のためにほとんどの時間を自室で過ごさなければならず,プールを見下ろせるバルコニーや窓辺から,仲間たちの様子を見守ることになった。編集チームのほかには,Bill Keller と夫人のFrances がやって来て,皆を喜ばせた。

打ち合わせは,リードホテルという英国風の古いホテルの庭で行われた。以前に比べて打ち合わせは事務的で,激しい議論は見られなかった。新たに編集主幹になった私が議論の脱線を許さなかったこともあるが,やはり,Harrison とResnik が抜けた影響が大きかったのだろう。Martha Bennett は最初は1 人で参加していたが,最後の数日間は,国務省の仕事で世界を一周してきたIvan Bennett も加わることができた。

このとき以来,「ハリソン組」の当初の熱気が失われてしまったことは残念でならない。打ち合わせには,白熱した議論も,ほとばしるような情熱も,できの悪い原稿に対する嘲笑もなかった。これは単に,執筆者の原稿のできが良くなったからかもしれないが,編集チームがあまり批判的ではなくなった可能性や,古参の編者に対して新参の編者が遠慮していた可能性も大いにある。もっとも,既に慣例化していたように,Adams の章の長さについての議論はあった。

当時,Keller に代表される出版社側と編集チームとの間には良好な関係が築かれていた。そのため,マデイラ島での打ち合わせから9 ヶ月後に,彼がMcGraw-Hill 社からYear Book 社に移ると聞いたときには誰もが落胆した。McGraw-Hill 社は編集チームに,彼が抜けた穴はなんとかして埋めると約束し,11 月の終わりには事態は完全に落ち着いた。彼らは言った。当初の計画どおり,第6 版は翌年の春に出版されるだろう。ひょっとすると,2~3 ヶ月は遅れるかもしれないが。

※1訳注:大西洋東部のポルトガル領マデイラ諸島の首都で,国際的な観光保養地