ハリソン物語

第7版 1974年・M.M. Wintrobe

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第6 版の成功により第7 版への動きが加速し,第7 版は1974 年1 月に出版された。売り上げはすばらしかった。Braunwald,Issel-bacher,Petersdorf を編集チームに迎えたのが成功であることは明らかだった。彼らは比較的若く,いろいろな場所を旅行していて,精力的に仕事をこなした。第7 版の打ち合わせは,1971 年にユタ州のアルタで行われたのを皮切りに,1971 年5 月4 日にはアトランティックシティー,1971 年9 月16~19 日にはイギリスのロンドン,1972 年9 月にはスペインのマドリード,1973 年には春にアトランティックシティーで開かれるASCI(American Society for Clinical Investigation)とAAP(American Association of Physicians)の会合の直前にニューヨークで行われた。「長い打ち合わせ」の場所はスペインのマドリードだったが,たった5 日間だった。時間に余裕がなかったので,誰もが仕事に集中し,息抜きや脱線はほとんどなかった。幸い,マドリードには良い食事とワインがあったので,Thorn はふたたびグルメとしての本領を発揮することができたし,Isselbacher とBecky Wintrobe は,リッツホテルで,これ以上食べられないほどのキャビアを食べることができた。

第7 版の準備に関して特記すべき事項としては,マドリードでの打ち合わせにより編集チームとMcGraw-Hill 社との関係がより親密になったことがあげられる。もう1 つは,1973 年に開かれたニューヨークでの晩餐会である。このとき,Tinsley Harrison,Bill Resnik,Ivan Bennett が招かれて,旧交を温めることができた。

「短い打ち合わせ」の中で,検討すべき問題がいくつか見えてきた。問題はパターン化しつつあり,かつての打ち合わせで取り上げられたのと同じか,よく似た問題が取り上げられ,それに対する結論も,そう違ったものにはならなかった。すなわち,

1. 導入部の章の一部と,「疾患の主要な症候」や個別的な疾患についての記述とは別に一般的な話題を論じる章の有用性。学生や医師は,これを読んでいるのだろうか?
2. 皮膚や眼の疾患についての章はどうすればよいか?
3. ページ数を抑えるにはどうすればよいか? 神経学の分野を簡略化するにはどうすればよいか?
4. 精神疾患についての議論は十分か?

という問題である。

われわれは,第1 の問題に対しては問題志向型診療記録についての章を加え,第2 の問題に対してはFitzpatrick とHaynes が執筆する皮膚に関する章を新たに加え,第4 の問題に対しては精神科医が執筆する精神疾患の章を5 章加えたが,第3 の問題に対する有効な手だては見つからなかった。