ハリソン物語

第9版 1980年・K.J. Isselbacher

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校正があらかた終わった1979 年1 月には,第9 版を完成させ,その後の計画を練るために,アンティグア島※1のアンカレッジホテルで「長い打ち合わせ」が開かれた。参加したのは,5 人の編者と,新たに編者になったJoe Martin 夫妻,Rhoda Isselbacher,Marissa Adams,Petersdorf の長男,Richard とCarol のLaufer 夫妻,およびDereck Jeffers だった。この打ち合わせで,『Update』と『Pretest Self-Assessment and Review(PSAAR)』という2 つの新しい企画が決まった。『Update』の売り上げはまずまずで,特定の分野について詳細に論じる論文もおさめられており,科学的観点からも良い試みだった。

PSAAR は名案のように思われたし,実際,1987 年の時点で3 版にわたって続いている※2。当初,PSAAR の購入者に「カテゴリーI」の点数が与えられるようにすることが問題だったが,幸い,Wilsonがテキサス大学の同僚を説得してくれたおかげで生涯教育(Con-tinuing Medical Education:CME)クレジットが認められた。われわれはまた,『Pretest Patient Management』という本も企画し,AlfredJ. Bollet に編者になってもらった。この企画は,懐胎から誕生までは順調だったのだが,うまく育たず,死んでしまった。一連の企画に携わったわれわれには,『ハリソン内科学』とコンパニオンブックそのものが,Braunwald が言うところの「医学教育のゆりかごから墓場まで」になったように見えた。

「母体」ともいうべき『ハリソン内科学』の第9 版は,大成功をおさめた。それは,予定より早く世に出て(コピーライトは1980年になっているが,実際には1979 年11 月に出版された),どの版よりもよく売れて,編集チームとMcGraw-Hill 社を喜ばせた。われわれは,この第9 版でついに,追いすがる『セシル内科学』に決定的に水をあけたことを感じた。第9 版が成功した理由としては,新たに寄稿された章に対して伝統ある「ウルフ・システム」を復活させたことが大きいだろう。特に,Braunwald とPetersdorf は学部の同僚を動員して,栄養,遺伝学,内分泌・代謝学についての新しい章を徹底的に批評させたが,新しい編者には,この批評が大いに参考になったはずである。※3

※1 訳注:西インド諸島東部の島
※2 訳注:2000 年には第9 版が出版され,2003 年には第10 版が出版される予定である。
※3 訳注:第9 版の準備が進んでいた1978 年の晩夏に,初代編集主幹であるTinsley Harrison は,長い闘病生活の末に亡くなっている。享年78 歳。