第11版 1987年・E. Braunwald
そこで,第11 版でもWintrobe の「ウルフ・システム」を導入すべきだという声が高まった。新たに寄稿された章については,編者はもちろん,彼らが所属する研究機関の同僚たちが,その内容を詳細に検討することになった。また,3 版以上にわたって変更のない章については,その分野の責任編者以外の編者が検討を行い,内容が時代遅れになっていないことを確認した。さらに,若手の研究者に全分野を詳細に検討してもらい(そのための費用は編者が自腹を切った),編者のレジデントたちにも検討してもらった。
第11 版の作業が終わりに近づいてきた頃,Petersdorf が米国医科大学協会の会長になり,編集作業を軽減する必要が出てきた。そこで,編集チームはRichard K. Root に協力を頼んだ。彼は長年,『ハリソン内科学』に寄稿してきた感染症の第一人者で,その頃ちょうどカリフォルニア大学サンフランシスコ校の学部長に選出されていたからである。Petersdorf とRoot が第12 版でも責任を分割して感染症の大きな分野を担当してくれることが明らかになったとき,チームは大喜びした。
ただ1 つ,気がかりなことがあった。それは,数年前から顕著になってきた傾向で,医学生たちが,いわゆる「らせん綴じ」の本,ペーパーバック,ポケットマニュアルのような医学書ばかり読み,ページ数の多い総合的な医学書を敬遠するようになってきていたのである。はっきりした理由は分からない。1 冊あたりの値段の高さが医学生の懐には厳しいのかもしれないし,『ハリソン内科学』のような優れたテキストにおさめられている圧倒的な情報量に尻込みしてしまうのかもしれない。この問題は,シーアイランドの「長い打ち合わせ」で初めて取り上げられた後,1986年5 月のワシントンでの打ち合わせや,1986 年7 月のマサチューセッツ州アンドーバーでの打ち合わせでも突っ込んだ議論が交わされて(アンドーバーでの打ち合わせにはRichard Root も参加し,大いに活躍した),『ハリソン内科学』のコンパニオンブックになるハンドブックをつくり,Braunwald が目次を作成することが決まった。ハンドブックはテキストではなく,基本的な枠組みの情報を,学生やレジデントが利用しやすい形で提供するためのものだった。「本体」には,より詳細な情報を必要とする読者のために精選した参考文献のリストをあげてあるが,同じように,ハンドブックにも「本体」の参照箇所を明示することにした。
- 第1版 1950年・T.R. Harrison
- 第2版 1954年・T.R. Harrison
- 第3版 1958年・T.R. Harrison
- 第4版 1962年・M.M. Wintrobe
- 第5版 1966年・M.M. Wintrobe
- 第6版 1970年・M.M. Wintrobe
- 第7版 1974年・M.M. Wintrobe
- 第8版 1977年・G.W. Thorn
- 第9版 1980年・K.J. Isselbacher
- 第10版 1983年・R.G. Petersdorf
- 第11版 1987年・E. Braunwald