ハリソン物語

Beesonの回想 Paul Beeson

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署名をご覧になれば,初版の編者がHarrison,Wintrobe,Thorn,Resnik,Beeson の5 人であったことがお分かりになるだろう。われわれの誇りであるRay Adams が神経系分野の編者として参加したのは第2 版以降のことなのだ。

『ハリソン内科学』の冒険的な企画について,私が最初にHarrisonから手紙をもらったのは,1945 年か46 年の,エモリー大学にいた頃のことだった。彼が説明する「前半を病態生理学の記述に費やす新しいスタイルのテキスト(現在の『ハリソン内科学』の形式)」のアイディアを名案だと思った私は,喜んで編集チームに参加することにした(私は後に,彼が最初にChester Keefer に声をかけ,次にCharles Janeway にアプローチし,最後に私に連絡してきたことを知った)。

われわれは,翌年のアトランティックシティーでの会合の際に,昼食をとりながら話し合いをすることにした。たしか,1946 年5月のことだった。出席したのはHarrison,Dock,Wintrobe,Beesonで,Blakiston 社の編集長であるTed Phillips も一緒だった。Phillipsは型破りの人物で,私は彼だからこそ,Harrison が要求した「夏の楽しい打ち合わせ」という条件も躊躇することなくのめたのだと思う。彼は,そのための交通費や滞在費についても非常に寛大だった。Dock は途中でチームから抜けてしまったが,本に対する親身な関心を持ち続け,原稿を執筆したり,「ウルフ・システム」の校閲者になったりしてくれた。