Beesonの回想 Paul Beeson
William Resnik は,Dock やKeefer とともに,Harrison が研修医としてジョンズ・ホプキンス病院に勤めていた頃からの親友である。Harrison は常々,このグループの中ではResnik がいちばん頭がいいと誰もが認めているのだと言っていた。実際,Resnik とKeeferが研修医時代に発表した数編の論文は,何度も引用されている。1 つは,狭心症の痛みが心筋の虚_によって引き起こされるという仮説についてのもので,もう1 つはたしか,肺梗塞の症候としての軽度の黄疸についてのものだったと思う。当時は誰もが,優秀なResnik はWarfeld Longcope のもとでチーフレジデントに指名されるに違いないと思っていたので,彼がその指名を蹴ったと聞いたときには非常に驚いた。彼が何を考えていたのかは,今となっては分からない。ただ,学者としての輝やかしいキャリアを捨てた彼は,コネティカット州のスタンフォード大学で内科医として勤務しはじめ,そこでもたちまち成功をおさめ,充実した忙しい日々を送るようになった。ボウマングレイからダラス,さらにバーミンガムに移ってからもResnik と頻繁に連絡をとり合っていたHarrison は,彼が医学研究を続けていて,最新の文献も精読していることをよく知っていた。そこで,『ハリソン内科学』の企画が持ち上がったとき,Resnik をゼネラリストとして編集チームに加えることで,現実から遊離しがちな学者たちをコントロールしてもらおうと思いついたのだろう。
次の会合は,翌年の1 月のSouthern Society for Clinical Researchの会合の時期に開かれた。参加したのはPhillips,Harrison,Thorn,Resnik,Beeson で,このとき,Wintrobe の強い要請により,Thornをチームに加えることになった。既に何十人もの執筆者が決まっていて,やがて,彼らから原稿が届きはじめた。原稿は編集チームの全員にまわされ,それぞれの編者は学部の同僚に批評を求めた。この方式は,ときに人間関係を険悪にすることもあったが,本の質を向上させるうえで大いに役立った。
初版は1950 年に出版された。その前年のアトランティックシティーでの会合(Hench がコルチゾンについて報告し,ほかにもいくつかの重要な研究成果が発表されたことで有名な1949 年の会合)の直後には,フィラデルフィアにあるTed Phillips の自宅で,最終準備のための打ち合わせが行われた。われわれはそこで,初版がどの程度売れると思うか,個人的な見解を打ち明けあったが,最も楽観的な者でも1 万部程度の数字をあげていたと記憶している。
- 第1版 1950年・T.R. Harrison
- 第2版 1954年・T.R. Harrison
- 第3版 1958年・T.R. Harrison
- 第4版 1962年・M.M. Wintrobe
- 第5版 1966年・M.M. Wintrobe
- 第6版 1970年・M.M. Wintrobe
- 第7版 1974年・M.M. Wintrobe
- 第8版 1977年・G.W. Thorn
- 第9版 1980年・K.J. Isselbacher
- 第10版 1983年・R.G. Petersdorf
- 第11版 1987年・E. Braunwald
- Beesonの回想 Paul Beeson
- Resnikの回想 William Resnik
- Adamsの回想 Raymond Adams
- Bennettの回想 Ivan Bennett
- Ted Phillipsによる最後の補注