ハリソン物語

Beesonの回想 Paul Beeson

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第2 版のための打ち合わせは,たしか,ジャクソン・ホールで開かれた。グループの顔ぶれは前回と同じで,Phillips,Harrison,Wintrobe,Thorn,Resnik,Beeson,それに彼らの妻子だった。私は,Resnik がこのときに撮ってくれたカラー写真を持っているが,そこには,ティートン山脈への半日の遠乗りに出かけようとするHarrison,Wintrobe,Beeson の姿が写っている。ごくカジュアルな服装をしたわれわれが,多くの人々が記憶しているよりはるかに若く見えるのは不思議なことだ。Wintrobe が言っていたとおり,この打ち合わせは非常に有益だった。われわれは毎日,半日ずつしか仕事をしなかったが,その間,電話にわずらわされることなく,執筆者や新しい章の必要性などにつき,思ったことを何でも率直に話し合えたからである。

1952 年には,私はイェール大学に移動することになった。そこでの仕事はエモリー大学での仕事に比べてかなり大変そうで,『ハリソン内科学』の仕事と両立させることは難しいように思われた。そこで私は第2 版が完成したところで編者を退き,代わりにIvan Bennett がチームに加わった。その後,1958 年から59 年にかけて,イェール大学から長期休暇をとってロンドンのライトフレミング研究所で研究をしていた私のもとに,Saunders 社から連絡があった。引退するCecil とLoeb に代わって,McDermott とともに『セシル内科学』の共同編集主幹になってくれないかというのである。イェール大学での仕事にも余裕が出てきた私は,Tinsley Harrisonが気にしないと言うなら,その依頼を受けてもよいと返事をした。私は早速,Harrison に手紙を書き,私の行為を裏切りと感じないだろうかと尋ねた。彼はただちにウィットに富む寛大な返事をくれて,もちろん裏切りなどとは思わないと言ってくれた。こうしてわれわれは別々の道を歩むことになったのである(もっとも,これはテキストについてのことであり,個人的な関係については何の変化もなかったのだが)。

『ハリソン内科学』の立ち上げにHarrison が果たした役割の大きさははかり知れない。第1 の貢献は,病態生理学と疾患の主要な症候からはじまるテキストというコンセプトを編み出した点である。第2 の貢献は,誰もが楽しく,和やかに作業ができるような雰囲気をつくり出した点である(ひょっとすると,こちらの貢献の方が重要だったかもしれない)。彼は,「ウルフ・システム」がもたらすとげとげしい雰囲気をなだめながら,非常に効果的な監修システムをつくり上げた。Blakiston 社がどんな手を使ったのかは知らないが,出版時にはTime 誌に短信が出た。その内容を詳しく思い出すことはできないが,Tinsley にインタビューしたライターが,彼を評して「いたずら好きの小男」と書いたことだけは覚えている。

ともあれ,100 万部,おめでとう(私は最近,Cushing の『オスラーの生涯』を読んでいて,『オスラー内科学』の初版が2 万3,000部も売れたことを知った。これは1892 年当時の医学界の人口を考えれば,驚異的な数字である。