ハリソン物語

Bennettの回想 Ivan Bennett

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1954 年に『ハリソン内科学』第2 版が出版された後,Paul Beesonは,イェール大学医学部長という新しい職務の忙しさと健康問題(数度にわたり大きな外科手術を受けなければならなかった)を理由に,「ハリソン組」を退いた。彼に代わって1955 年の末に編集チームに招かれたのが,エモリー大学医学部の2 年生の頃からずっと彼のもとでやってきた私だった。

私は,第3 版の「試用期間」を経て1958 年から正式な編者になったが,実際には,「ハリソン組」に参加するにはあまりにも経験が不足していた。Resnik を除けば,Harrison,Wintrobe,Thorn,Adams は全員教授で,長年にわたり医学部長を務めていたのに対して,私は,1951 年から52 年にかけてBeeson のもとでチーフレジデントとしてアトランタのグラディー病院に勤務した後,1952年から54 年にかけて彼とともにイェール大学に移って助教授になり,1954 年にジョンズ・ホプキンス大学医学部の準教授になったばかりだったのである。駆け出しの私をチームの仲間として温かく受け入れてくれた彼らには,心から感謝している。

Tinsley Harrison は常々,「自分はリーダーではない」と言っていたが,どう考えても彼がリーダーだった。彼を見ていると,「いやしくもやる価値のあるものは,徹底してやる価値がある」というモットーでも持っているように見えた。彼は非常に情熱的でエネルギッシュだった。自分のことは後回しで,他人の世話ばかり焼いていた。彼は常に何かに興奮していた。あらゆる出来事が彼を興奮させ,彼という存在がわれわれを興奮させた。医学について誰よりも深い知識を持ち,超一流の医師であった半面,医学とは関係ない事柄については子供のように無邪気だった。