ハリソン物語

Bennettの回想 Ivan Bennett

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彼らとともにセントクロイ島,シチリア島のタオルミナ,イタリアのコモ湖に集まって,精力的に仕事をしたことは,私にとってかけがえのない思い出になっている。

1966 年に第5 版が出版された後,Resnik とHarrison の2 人が高齢と健康状態の悪化を理由に「ハリソン組」から去り,代わりにBraunwald とIsselbacher が加わった。さらに,1966 年の秋には,私がジョンソン大統領からホワイトハウス科学技術局副局長に任命された。この職務の任期は1969 年までだったので,第6 版を準備するための時間が足りず,ジョンズ・ホプキンス大学病院に勤務していた頃の同僚だったPetersdorf の力を借りることになった。彼は「準編者」としてすばらしい仕事をし,安心した私は第6 版をかぎりに編集チームから退き,第7 版からは彼が正式な編者として参加することになった。

1968 年の8 月にマデイラ島で開かれた第6 版の「長い打ち合わせ」には,私も数日だけ参加することができた。これは,私にとっては最後の「長い打ち合わせ」になったが,これまでのようにざっくばらんな雰囲気がなかったことに戸惑いを感じざるをえなかった。主な理由はHarrison とResnik の不在にあったが,ソ連によるチェコスロバキア侵攻もチームの心を重くしていた。さらに,Becky Wintrobe が軽い心臓発作を起こし,Braunwald が理想的とは言い難い環境で彼女の世話をしなければならなかったという事情もあった。

私が語る歴史はここまでだ。Wintrobe,Thorn,Adams についての言及がほとんどないのは,彼らがまだ現役の編者であり,新しい編者も彼らのことはよく知っているからである。